脳みそあげます!

エンパシーって大事

敷かれたレール、轢かれる子ども〜〜勉強なんて、親なんて〜〜

 こんにちは、そしてさようなら。スキナンは今日もちゃーんと生きていました。
そんなにポンポンと記事が書けるわけもなく、今回もなんとなく前回(これを書こうかなぁ)と思ったことを捻り出しているのですが、とにかく。
今回のテーマはずばり、スキナンと学習塾のことなのです。

子どもの夢は親の夢、親の夢は子どもの夢

 スキナンはとにかく小さめの頃から塾媒体での学習をさせられていました。させられていたというのはつまり、自分で通いたいということではなかったということです。この世の中で、一度でも塾やそれに準ずる機関に生徒として通ったことがあるヒトの中のほとんどは、自らの意思で通っていたわけではないのではないでしょうか。もちろん自分から申し出て通っていた尊いヒトも多く存在していますが、子どもという、家庭内の金銭の管理を任されていない人間が塾に直面するのは大抵家族の意志によるものです。やれ○○受験だ、学内での成績が下がった、将来××になるには云々という内容で教室の門扉をくぐらされることが大体の動機になると思います。

 スキナンの育った家庭もまさしくそういう状況に置かれたところでした。元々スキナンが小学校低学年あたりまで暮らしていた地域はのほほんとしていて、受験とか勉強の優劣でどうのこうのというような雰囲気はなかったのです。しかし、スキナンは引っ越しをすることになりました。新天地では小学校のすぐ近くに中学校があったのですが、当時はその中学校の風紀が乱れていて(外に喫煙者がいたり、小学校への侵入者が発生したりするような感じでした)、そんな危ない学校に我が子を通わせて我が子が不良になったらどうしようと考える保護者が多かったのです。また、スキナンの住んだ地域の周囲には進学校が沢山あり、“受験戦争”にスキナンが巻き込まれるのは時間の問題だったのです。

 スキナンの父は、自分の夢を子どもに勝手に託して叶えさせたいタイプの人間でした。当然彼はスキナンに中学受験をさせようと躍起になりました。スキナンは習い事もいくつかしていましたが、その中に学習塾が加わったのは小学校3年生の冬の頃です。スキナンの母はトップオブザマウンテン気質ではないので、本人ができるレベルにあった学校で良いと思っていたのですが、父は子どもを自分の分身と思い込んでいるので、子どもを限界まで追い詰めることで自分はこんなにやっている、こんなに偉いと威厳を保っていました。スキナンは生活を管理されていたので、自分の自由な時間というものはご飯を食べている時と、寝ている時と、塾がない曜日(大抵は習い事が入っている)の夜のちょっとした時間くらいのものでした。その他の日は学校に行って帰ってきたら塾の支度をし、塾に行って帰ってきたら学校の宿題と塾の宿題と予習と復習をやって深夜まで何かしらずっと科目と向き合う生活を続けていました。中学受験をしたことがあるヒトにはある程度共感してもらえるとおもうのですが、あれは子どもの学習意欲ではなくて、親の見栄対決が中心になっているので、親が勉強をして子どもの脳に無理やり詰め込んでくるのです。♪ これっくらいの♪ おべんとばこに♪ 算数国語理科社会と親のエゴをめいっぱいつめて♪ くるのです。先っぽだけだからとかいいでしょとかそういう理屈の方がマラ、じゃなかった、まだマシだったのです。

 高学年になって算数が足を引っ張り出す頃には、家庭教師もつけていました。習い事も辞めて、平日は毎日学校と家と塾の往復、たまに家庭教師に寝そうになりながら苦手単元を教わり、週末はテストに追われ、学校の宿題はほぼ当日に学校でやっていました。
スキナンはそんなこんなの荒波に揉まれてどうにか受験を終えました。決して優秀ではなかったスキナンは周囲の最大限のサポートを受けて、どうにか父のお眼鏡に叶いそうなランクの中高一貫校に合格したのです。

井の中の蛙大海を知らずとでも思ったかこのヤロー

 スキナンはこうして第一関門を突破したのですが、私立のある程度のレベルの進学校に通うということがどういうことを意味するか、大体の人間はわかると思います。
そう、また新たな戦争が始まるのです。それも同じレベル同士の人間達で一斉にヨーイドンが行われるのです。そしてそれは小学生の頃よりも激しい戦いになるのです。

 中学受験をするような家庭の親というものはエゴエゴのエゴが身体に詰まり切らずに溢れ出しているような人間が少なくありません。だって子どもの人生設計を今まで親がしてきたのです。よほどの事がなければ、まだ鞍に跨って手綱を握ったままでいたいのです。一方で子どもの側も精神や自我が成長してきますから、自立したいのに親が過干渉というジレンマに遭ってしまいます。スキナンの家庭でもそれは起こっていました。定期テストの管理を親がしてくるのです。スキナンは子ども心にもうほっといてほしいと思っていましたが、いかんせん今まで親の管理下でしか勉強をしたことがありませんでしたので、勉強の仕方、進め方がよくわかりません。

 ここで問題になるのは、クラスの生徒達の学力が拮抗しているということです。彼らもまたスキナンと同等かそれ以上の学力があるので、うまく親と距離を保てた場合や、既に自立して自分で学習する方法を身につけている場合、親が干渉してこないので全て自分の意思、責任として学習に向かえるのです。そうすると段々と意欲にも学習の質にも量にも差が開いてくるのです。なぜなら彼らは自分の欲求とも折り合いをつけて自己管理ができるからです。スキナンのように監視下に置かれていては、好きな時間もろくに取ることができません。以前の記事で触れましたが、スキナンはヲタクの道を歩み始めていたので、漫画を読んだり空想に耽ったりする時間が欲しかったのですが、せっかく親が望むレベルの学校に入ったというのにまだ彼らの視線がまとわりついてくるので、生活リズムが変わらないのです。結局窮屈なままの生活じゃないか、と思って忙しく暮らすしかありませんでした。

 スキナンは初めはそこそこついていけていましたが、そのあとは中途半端な成績かそれ以下しか取れませんでした。すると親は怒るのです。こんなことでどうするのか、と。確かにスキナンの側でも苦手な科目や吸収し切れない学習量に早々に苦手意識や諦めが出ていて努力を怠った面もあったのですが、今思えば「そもそもこんな無理をさせてこの学校に入れたのはあんたのせいじゃないか」「自分の夢を押し付けられた結果をちゃんと受け入れてくれ、現実を見ろ」という怒りが根本にありました。学力というのはどうしても遺伝的な要素が関係してくるもので、スキナンの場合は小学校の頃から理系科目がさっぱりダメでした。スキナンの父も母も文系なのです。いくら学校の数学の問題を教わろうと思っても、もう彼らの手には負えない難しさまで到達してしまい、誰も解説できないのです。それなのに偉そばっていて、怒るのです。何も教えてくれないのに管理だけしてくる人間に誰が従おうとするでしょうか。スキナンが放り込まれた井戸は親の井戸なのであり、外の大海にどんなに賢くて強い遺伝子エリートモンスターがうじゃうじゃいるかなんてわかっていなかったのです。彼らエリート蛙達はちゃんと授業についていけるだけの素質や基盤を持っています。だから残されたスキナンのような“なんとなく親の夢を叶えてしまった”人間の苦手科目の取り残され方が尋常ではなくて、たとえば数学の授業中にセンセーが何を言っているのか理解できたことは数える程度でした。進学校はまさに進む学校で、授業のスピードは矢のごとし、教わる内容は海のごとしでした。当時公立の学校ではいわゆるゆとり教育が始まっていましたが、進学校にはそんなものはなく、むしろ詰め込み教育を行っていました。中学3年間の間に高校1年までの学習範囲は終了し、高校2年から文系と理系に分かれ、高校3年生に至っては必修以外は選択科目で、日によって空きコマがあったりするような学校でした。

 スキナンが再び学習塾に通わされるようになるまでにそう時間はかかりませんでした。

 学校の数学の授業についていけなくなったスキナンはまず、学習支援塾に通うことになりました。中学受験の時の集団教室型とは違い、個別指導の教室に通って担当の講師から指導を受けるタイプのアレでした。スキナンはそこで周回遅れの数学を2年半くらい教わっていました。とにかく学校の授業についていくのがやっとのことだったスキナンにとっては、既に終了している単元を学習するのは抵抗があったのですが、数学は単元ごとに関連している内容が縦に連なった学問ですので、周回遅れでも意味があったのです。たとえば一次関数は二次関数、図形問題は証明問題とリンクしていて、前提分野がわからなければ次も理解が難しいというふうに。ただしスキナンの理解の遅れ具合は酷かったので、その二次関数でいえば学校で習ったのは中学2年生の頃で、基礎の仕組みを理解したのは数学の学習も終わる高校1年の終盤でした。(ちなみにスキナンが高校1年の頃は数Ⅱ・数Bをやっています)そんなレベルだったのです。その頃の学校の学習風景は数学が苦手な人間にとっては最早外国語の授業であり、センセーが口を開けて意味不明な言葉を垂れ流しているな、といった感じでした。

 スキナンはまた、英語も早々に詰みました。小学校の頃にちょびっと英会話の習い事をしていたので初めは面白かったのですが、疑問文がBe動詞と一般動詞とで混在してくるあたりから楽しい科目ではなくなり、テストでも散々な点を取っていました。学校では海外の教材を扱っていたため、その取り扱いがある専門的な英語教室に通うことになりました。スキナンが受けていたクラスは大人も生徒として多く参加していたので、違和感はかなりあったものの、独特な授業を受ける体験は面白いと思ったものでした。そこでは資格試験も扱っていて、スキナンは中学3年生くらいまでそこに通い、英検3級もそこで取りましたが、そのあとは辞めてしまいました。なぜなら、本格的に全面戦争を控えていたからです。

 そうです、スキナンはまた受験に立ち向かわなくてはならなかったのです。中学受験をした後には、エスカレーターか付属かその他の進路でない限り、さらに何かしらの受験が控えているのです。嫌な家庭に生まれてしまったものですが、親のエゴが子どもに繋がってしまっていたので仕方がありません。こうしてスキナンは大学受験戦争に巻き込まれていくのでした。

泳げないたい焼きくん

 高校になんとか進級すると、今度は文系か理系か、どの学校に行きたいのか等を見据えて生きていかねばなりません。中学受験と違って今度は学校ぐるみですから逃げようがありません。どんどん学習内容はレベルが上がり、今までついていけていない科目はもう捨てるしかないという段階にきていました。高校1年になって、やっと中学2年の単元が理解できたかどうかというレベルのスキナンは文系しか選択の余地がありませんでしたから、進路が決まったというか、退路が断たれたというほうが正しいでしょうね。

 スキナンは反抗期に差しかかっていて、勉強もしなければ生活も怠惰でした。ヲタク生活を充実させることのみを生き甲斐としていたので当然といえば当然なのですが、通っていた個別教室と英語教室を辞めて、受験目的の予備校に新しく通わされていたのです。勿論親の意向で勝手に決められた少人数制の予備校です。もうスキナンは諦めかけていました。いつまでも親(父)は追いかけてくるので、自分の自立ということは馬鹿馬鹿しいとさえ思っていました。自分の進路というものは親の進ませたい進路なのであって、子どもの選択権は既に失われていたのです。やる気が起きるわけがありません。しかし学校も進学校のため、プー太郎みたいなことも容認されないのです。鯛焼き機に挟まれたあんこみたいな立場でした。型からはみ出ることは即ち焼死を意味します。でも勝手に周りの生地である学校と親が固まって位置を決めてくるのですから、せいぜい横に広がるくらいしかできることがないのです(スキナンはたまたまですが体型的には横に広がっていきました)。

 しかし、予備校は意外にもスキナンにとって意味のあるものとなっていきました。家にいないほうが楽なのです。またこの頃スキナンは高校生でしたが、スキナンの弟が中学受験を迎えようとしていたので、父の関心は彼のほうにもシフトしていたのです。それと、予備校での友人関係が思ったよりも良かったのです。これまで通っていた個別教室はそもそも会話する相手がいませんでしたし、英語教室で大人と交流できるほどスキナンは度胸がありませんでした。それが予備校にくると、似たようなレベルのよその学校の生徒もいて、異文化交流ができるようになったのです。同じ学校から通っている親友も在籍していたこともあって、スキナンにとって初めて塾が楽しいかもしれないと思えました。また、予備校の先生方もすごくまともな大人で、スキナンの父のような視野の狭いワガママ人間とは似ても似つかない存在だったことも影響しました。彼らは、何故スキナンがわからないのかということは気にすることなく、何がわからないのかわからないところから一緒に考えてくれるようなちゃんとした人でした。本来塾の講師はこうあるものだと今でも思っていますが、とにかく徹底的に、スキナンが理解が及ばないのはどこの何が原因なのかというところからやり直してくれたのでした。

 スキナンは英語と古典文法とを中心に苦手が蓄積していてえらいことになっていましたが、一度木っ端微塵に分解し、一つずつ積み木のように重ねていくことで、学校での魔法の呪文を理解できるようになり、やっとのことで成長していったのです。裏を返せば、それだけのことをしないと、一般的な魚は鯛を真似することすら無理なのです。鯛焼きは腐ったらただの臭い液体なのです。

現実ってこんなもんだけど

 予備校という水を得てスキナンは徐々にですが、横に広がるだけのあんこから、バタバタしつつも一応泳げる鯛焼きくんになっていきました。しかし同時に周囲の同学年の人間も同じような強化合宿をしているわけですから、あとは消化試合というか、スペックの差によって処理できる量と内容差が歴然とするだけなのでした。あまり持って生まれた才能がどうのといいたくはありませんが、どんだけ頑張っても理工学部や医学部に進学したり、芸術方面に進んだりというようなことはできなかったのです。そこに到達できるような元気で柔軟な明るい脳みそは持っていませんせした。職業に貴賎はないとは表面的にはいっても、社会の登竜門は学歴であり、学力にはどうしてもランク付けがされてしまうのが日本の悪いところです。将来のことを考えるにつけ、もう戦いとしてはとっくに負けているなぁと子ども心に思っていました。

 スキナンは受験しましたが、合格した大学のレベルは通っている進学校の基準と照らし合わせると及第点とはいい難いところでした。勿論一般的な学生の平均レベルからすると、一定の(世間での知名度はそこそこあるという意味での基準)学校なのですが、スキナンの父はこの後に及んでも、スキナンの受験校の学部指定までしてきたような人間でした。最低でも東京六大学のレベルでなければ受験に成功したことには到底なっていません。

 スキナンは卒業までの束の間の休息の後、消去法で浪人を選択しました。せっかく予備校から離れたのに、また新たに予備校を探すのです。これまでお世話になった予備校は浪人生のクラスを設けていなかったので、出直ししかなかったのです。もうこの辺りにくると、受験は執念でしかありません。合格したのにそれは合格ではないと判断されているので、勉強の意義とか概念とかいうものも薄れてしまいました。残ったのは「あのオヤジ今に殺してやるからな」という気持ちだけでした。流石に今度ばかりは母と予備校を探し、自分でどこに通うかを決めて自分で申し込みました。もう管理されようものなら刺し殺してしまいそうだったので、父の存在はできる限り無視し、いないものとして扱いました。同学年の友人は合格した学校に通っているのがほとんどだったので、惨めな気分にもなりましたが、それはそれ、これはこれと踏ん切りはつけていました。戦うべくは親だからです。

塾に通いまくるという人生

 スキナンは浪人生も扱っている、超大手の予備校に決めました。これまでの人生で、小学校、中学校、高校と5つの学習塾に通ってきた塾のプロ生徒にとって、超大手予備校なんて屁のかっぱみたいなものでした。集団授業も個別授業も大人入りの授業も受けてきたスキナンにとって、大勢の人数で受ける講義形式の授業は楽ちんのちん以外のなんでもありません。唯一気になったのは、受けている浪人生の質がバラバラすぎて、この人は本当に受験するのだろうかというような生徒(バイトばっかりしているとか、教室にデートしにきているようなカップルみたいな人、その他環境の違い)も散見されていたことくらいです。

 現役時代に既にスキナンは英語と古典と現代文の科目には自信があり、予備校ではさらに専門的に学習単元を極めたことで、漢文もかなり理解が及ぶレベルに達し、必死になってやっていたのは主に世界史でした。スキナンはとにかく暗記科目が大の苦手だったのです。英語や古典にも暗記する単語や項目がありますが、勉強してきた年数が長く、慣れもかなりありました。ところが世界史は高校2年生からしか始まっておらず、定着するまで単元の反復ができません。暗記する項目の数も尋常ではなく、しかも目指しているのが六大学以上となると出てくる問題のレベルも高いので、重箱の隅問題や記述問題は捨てて、最低限の点数を死守するという戦法を取らざるを得ませんでした。参考までに、スキナンの現役時代のセンター試験の世界史の点数は33点でした。浪人してやっと60点です。解き方のテクニックや時間の配分にコツがある英語や古典に関しては現役時代から9割以上、現代文でも、問題製作者の意図を汲み取ることで8割をキープしていたことに比べ、純粋な暗記力がいかに残念だったかわかるでしょう。今でも勿論暗記科目はスキナンは苦手です。法則もなく物が羅列されているだけにみえてしまって、頭に吸収できる量にすぐに限界がきてしまうのです。同様の理由で数学は公式の暗記が出来ず玉砕(テスト開始は公式の書き写しから始めて時間もなくなるし途中で忘れるし、公式を間違えるという三重苦も)、理科の化学式が以下略、物理の計算式が以下略というような事態だったのです。今から思えばスキナンは哲学とか文芸思想みたいな分野のほうが向いていたと思いますね。高校で学習した倫理の授業では暗記項目はからきしでしたが、自分の思考を述べる記述式のレポート課題では最高評価でした。ヲタクだったから創造性が豊かだったのかもしれませんが、多分配られたカードでプレイするのではなく、新しく何かを生み出すほうが断然やりやすかったのです。

自分で勉強するということ

 スキナンは浪人時代、初めて親に干渉されることがほとんどない状態で勉強をすることができました。自分でペースと時間を決めて計画的に学習を進めるということは、自立の一種です。ヲタク活動についても勿論スキナンはある程度抑制していましたが、それが可能だったのは他のストレス要因が少なかったからだと思います。想像以上に親の過剰なストレスがあったのだということにようやく気付いた頃でもあります。学校生活もなく、家と予備校の往復のみの生活でしたが、スキナンはたまたま教室で仲の良いヲタクの(←ここ超大事)友人ができたので、息抜きもできていました。

 心身の安定があるだけで、学習時間や内容がこんなに意味のある深いものになるんだなぁ、などと感じる余裕もあった気がします。実際は世界史の暗記にてんやわんやだったわけですが、少なくとも対父へのプレッシャーが小さくなったので、自分の問題に向き合う時間もあったわけです。自分でも変な気持ちですが、浪人時代が一番濃い勉強をしたように思います。自分の自分による自分のための勉強ってやっぱり真剣になれる物だと思います。相変わらず暗記は全然できませんでしたが、どうでもいいやということではなく、苦手なりに努力はしました。また、大手予備校だけあって、一流レベルの講師が展開する講義は純粋に知識の底上げをしてくれたことも助けとなりました。授業も興味深く、終盤の英文法や古文などは半ば娯楽として聞いているほどになっていました。わからない分野が出てきても、そこまで焦らないようになってきたともいいます。試験では取れるべき箇所を確実に取れればそれでいいからです。満点が取れるまで学習する必要はないからです。予備校には講義の他にも色々な制度や利用可能な施設がありましたが、スキナンは静かな場所にいると勉強しにくい質だったので、いつも人が集まってざわついている食堂みたいなところで勉強して、たまにヲタク友達と買い物に行ったり、ご飯を食べに行ったりしていました。勿論彼らとはかなり長い時間ヲタクの話をしたり、人生のくだらないことを話したりという、子どもにとって大事な時間もとっていました。楽しい時間があった分、しっかりと学習もできたのです。

 浪人を経て再び受験に臨んだスキナンは今度こそ自分にあった学校に合格しました。うるさい父の最低条件も満たし、スキナンは好きな学校を選ぶことができました。細かいことをいえばレベルの高い学校には落ちましたが、自分のレベル帯だと思ったところには全て受かり、選択肢が6つもあったのです。最高に嬉しい瞬間でした。この1年間は自分で塾を決めて自分で勉強して上手くいったのです。学習機関とはこうやって利用すべきだったのです。自分から出したものでないと、利点も欠点も発見して見つめ直すことが難しいものなのです。

 かくして、およそ10年にも及ぶスキナンの塾遍歴は終わりを迎えたのでした。

戻り鯛焼きとして

 さて、ここまでつらつらと書き連ねてきましたが、スキナンは実はまた塾と関わりを持つようになったのでした。あれだけ通いまくってさぞ辟易しているだろうと思いきや、スキナンはバイト先に個別指導型の塾を選んだのです。

 つまり、教わっていた立場から今度は教える側として戻ったのです。塾生活が染み付いてしまって取れなくなっていたわけではなくて、単にできそうなバイトがそれしかなかったという実に虚しい理由なのですが、とにかくスキナンは塾講師のバイトというものと付き合っていくことになるのです。でもそれについて書くとまた長い話になるので、続きは次の記事でということにします。

 スキナンと塾は切っても切れない縁なのでした……