脳みそあげます!

エンパシーって大事

きぃからから きぃくるくる

※今回は記事というより覚書に近しいです。

下手の横好き

 突然ですが、スキナンは地味な手作業が苦手です。より詳しくいうと、楽しくても不器用ゆえに、工作とか物作りが下手なのです。根気は人一倍あると自負していても、指先がとっ散らかるものだから、時間が大層かかるのです。学校で裁縫やら美術やらがありましたが、毎回時間いっぱい以上かかってしまい、諦めて途中にしたり、家族に手伝ってもらったりしておりました。ちなみに、絵のセンスが皆無でありまして、太陽は全部黄色、空はいついかなるときも水色に塗るようなタイプでした。スキナンの中には夕方とか朝ぼらけは存在しないのでした。

 そんなスキナンですが、手作業自体は好きだったりするのです。たとえばイラストロジックとか、順番に指定された色を塗るようなものは暇があるとなんとなく数時間やってしまうような人間です。下手なのに。多分、他人と関わらなくてよくて、なおかつ集中できて、終わると謎の達成感があるものが好きなんでしょう。そういう意味では、一人でできるゲームをするのも好きです。最近The Witness という島一面にパズルが散りばめられていて、問答無用でひたすらパズルをさせられるゲームにもハマりましたが、画面酔いしやすいスキナンには1回30分しかできず、悩みの種であります……

 話が逸れてしまいました。手作業系の中で、不器用なスキナンにも少しだけ腕に覚えがあるものがあるのです。それは、ミサンガ作りです。詳細は省きますが、学生時代、運動系の部活に属していた時分に、願掛け的な意味合いで、文字の入ったミサンガを定期的に作らされていたのです。スキナンは不器用なので苦戦しましたが、一人で10本とか作れば、流石に手順も覚えるし、流れ作業になるもので、その頃を思い出して、十数年ぶりにミサンガを再び作ってみようと思ったわけです。

ミサンガ作りあるある

 ミサンガを作るにあたり、スキナンは大体長さを測った刺繍糸をテーブルやボードに貼り付けて編んでいくのですが、紐が長いと先がどこかで絡まったり、埃がついたり、引っ張ったときに切れたり……こういうトラブルってありますよね。それから、隣の紐を巻き込んだり、隣の隣の紐を編み込んでしまい、ほどき直す……こういうトラブルもありませんか? ありませんって人間にはさいですか、すごいお人だなや、としかいえないのですが、スキナンは不器用なので、なにかしらのトラブルが起こります。
 せめて、糸が一定の長さで保たれて絡まなければいいのに……

 スキナンはそこで、「機織りする人が使うような手に持つヤツ(名前がわからない)」があれば、この煩わしさがまとめてなくなるのでは? と思いあたったのです。インターネットを探し回ること数時間。見つけてしまったのです。お助けアイテムを。それは、タティングシャトルタティングレースというレース編みに使用する小さな糸ホルダーなのです。

 なにがどう解決したのか、写真で見た方が早いので、お見せします。これです。
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 ご覧の通り、各糸を全てシャトルに巻いて、机の端にぶら下げるだけです。これの便利なところは、シャトルから糸が勝手に出ていかないこと。そして、シャトルの重みで各糸がピンと張るので、糸の取り違えが減ること。そして、これは編んでいるときですが、軸糸は引っ張らなくてもよくなるということです。(軸糸はシャトルの重みで下に落とせば、巻き糸だけを引けばいいので作業が楽)
 この綺麗に並ぶ糸を見てください。煩わしさがかなりなくなりました。f:id:SUKINANAMAE:20220130132540j:plain
 
 ちなみにこのシャトルにはほつれをほどくための角が付いているのですが、痛いかもしれないので、そういう人間は角なしタイプをすすめます。シャトルにボビン(ミシンの下糸とかに使う小さな丸い糸巻き)をはめ込むタイプはおそらく糸が引っかからずに出ていってしまうので、買うときはボビンなしの直巻きタイプを入手してください。シャトルに自分で糸を巻いていく必要がありますが、これはこれで楽しいですよ。タティングレースもミサンガの4字編みを空中でやっているようなものなので、興味が湧けばレース編みにも挑戦できます。

おわりに

 というわけで、今回はスキナンが考えた最強のミサンガ制作環境についてでした。ミサンガみたいなちまちましたもん作れるかコラァ、みたいな人間も、このシャトルを使えば気分はまるで鶴の恩返し、細い糸でも目が揃えば楽しくなってくるものです。指先でなにかをすることはボケ防止にもなるし、手作り◯◯はなにもチョコレートとかマフラーだけではないのです。それに、ミサンガくらいならそこまで重くない……はずです(髪の毛とかを織り込むのはやめましょう)。
 もう少し時間があったらミサンガの説明でもしようかと思いましたが、動画で見た方が早いと思うので、今回はお預けします。
 それでは人間のみなさん、さようなら。

地震<<<雷>>火事>>>>親父 

まんじゅう怖い? 怖くない?

 スキナンは今日も元気に生きています。生存報告的な意味で。人生色々あるので、目下模索中なのですが、毎日100点満点中の55点くらいで暮らしています。

 ところで、人間や動物には数々の怖いものがありますね。スキナンにもある特定の恐怖症のようなものが存在します。今回はそのスキナンが恐れる対象について述べてまいります。ちなみにスキナンはまんじゅうなら豆大福が怖いです。山盛りの豆大福とか本当にペロッと……おっと話がそれました。

 日本では昔から《地震 雷 火事 親父》などといわれてきました。おそらくこれは家父長制度真っ盛りの頃に家庭内で使われていた言葉だと思われます。現代では親父の代わりに通信費あたりを入れるのが妥当でしょうか。
 
 スキナンは、この4つの中でダントツに雷がダメでした。そして今でも多分きっとおそらく高確率でダメなのです。反対に地震は全然大丈夫で、(震度5強レベルくらいでやっとニュースを確認)というか震災規模の地震だと死ぬか生きるかの2択になるので、いつでも覚悟ができているという感じです。もし明日大地震で死んでしまうならそれも天命と思っています。しかし、雷が接近して人が死ぬということは滅多にありません。基本的には安全な場所にいれば大きな音と光が明滅するのをじっと待っていればいいのです。停電はするかもしれませんが、命の危険が迫ることはそうそうありません。それでもスキナンは雷が大の苦手なのです。

雷が鳴るとまず守るのはヘソではなく耳

 スキナンは物心ついた頃にはすでに、雷の接近の予兆があると知るやいなや、布団の中に潜り込んで音が完全に遠くにいって、終わりの音(コ……オオンみたいな小さな低音)になるまでじっと耳を塞いでいるような子供でした。おそらく同じ恐怖症を持っている方には共感していただけることだと思うのですが、雷が鳴り始めるとまずその距離感を察知します。いきなりドカーンと来ることは稀なので、まだ遠い内から予防線を張るために、光ってから音が鳴るまでの間を身体で感じ、本番(近くに落ちるやつ)が来るのに備えるのです。そして雷がなるべく圏内に来ても怖くないように、

 ①家中の窓を完全に閉めきる
 ②全てのカーテンを閉める
 ③耳を塞ぐか耳栓をする
 ④音がしなくなるまでしばらく耐える(この間ほぼなにもできない)
 
 上記の①~④の内、2つ以上該当される方はスキナンのお友達です。子供の頃のスキナンは耳栓を持っていなかったので、ひたすら耳の中に指を突っ込んでいました。光の明滅と音のギャップが無くなってくるのがなんとまあ恐ろしいことか。今でもスキナンは最低①と③、場合によって②と④を追加という感じです。
 
 こんな話を聞くと大袈裟だなあ、なんて思われるかもしれませんが、本人にとっては死活問題なのです。余談ですが、スキナンは予備校に通っていたときにゲリラ豪雨に遭遇し、勉強していたところに突然雷雨が降り注いだことがありました。当時スキナンは1人で窓際(吹き付ける大雨とピカピカドンドンするお空のライブ中継付き!)に座っていたのですが、周囲の人間が特段変わった様子も見せずにいる中で取り乱しかけ、耐えられなくなって帰宅したことがあります。だって耳を塞いでどこかに逃げ込めるような場所もありませんし、トイレにずっとこもるわけにもいきません。なによりビビってしまって勉強どころではなかったのです。電車を待つ間の駅構内でも死にそうでした。   

 今現在はようやく鳴り始めると多少ビビる程度まで落ち着いてきましたが、それでも窓は必ず閉めますし、ほぼ100%イヤホンか耳栓をします。職場で雷が発生したときは雷が苦手だと周りにアピールして、トイレに入ったり、周りをウロウロしたりしてごまかしています。なんで誰も驚かないでいられるのか不思議で仕方がありません。それくらい、雷が苦手なのです。

雷の他にもあった怖い音

 スキナンは雷以外にも怖い音がありました。それは「音が鳴るとわかっているが、いつ鳴るか把握しにくい音」です。たとえば花火。たとえばクラッカー(手で糸を引いてパーンと鳴らすアレ)。たとえば運動会のピストル。そして映画館などで、静かな場面から一転して大きな音が鳴るシーン。俗に爆音恐怖症や破裂音恐怖症といわれるものです。そうです、スキナンは雷だけが怖いのではなく、いつ鳴るのか把握できない音全般が苦手なのです。
 
 上記のことから、スキナンは花火大会で泣きながら耳を塞ぎ、自分の誕生日で「クラッカーが怖いから向こうで鳴らして」といって別の部屋で鳴り終わるまで耳を塞ぎ、運動会ではほぼ終日耳を塞ぎ(ピストル鳴りすぎ問題)、映画館ではいかにもなシーンが来ると片耳を塞ぎながらなんとかやり過ごすという生活をずっと送ってきました。あと、ゲームセンターやパチンコ店の自動ドアが開く瞬間もかなり苦手です。ここ数年だと、途中で流れるタイプの動画広告なんかも死んでほしいと思います。この中で大丈夫になったのはかろうじて花火くらいなのです(何回か花火大会に行って音のギャップが予想できるようになったので、大きな音がしそうなタイミングでえいやっと踏ん張ることで耐える。花火の光は好き)。よくある「風船が割れる系の時間制限ゲーム」とか絶対やりたくありませんし、「黒ひげ危機一発」みたいなビックリ系も総じて苦手です(音が小さい場合はまだなんとかなる)。うっかり黄身を突かずに電子レンジでチンしてしまった生卵なんか殺人兵器にしか見えません。さらにいえば、電話の鳴り始めも苦手です(仕事で死ぬほど使っていたので慣れましたがビビるしできることなら出たくない)。このご時世なので、家族が家にいることが多いのですが、彼らが急にドアを開けたり閉めたりして音が響くのも苦手です。平気な人間からすれば大したことないと思われてしまうのですが、これらの要素がある音が発生する環境にいる場合、スキナンは無能になることが多いです。今が戦時中でなくて本当に良かったと思ってしまいます。空襲警報だけで気絶する自信があります。
 
 スキナンはこれらの音になるべく遭遇しないように気をつけていますが、映像系はエンカウント率が高いので、【5秒後に大きな音が流れます!】みたいなアナウンスサービスが切実に欲しいところです。解決方法が耳の中に入ってくる音のボリュームを減らすくらいしかないので、家にいるときはしょっちゅうイヤホンをして他の音を聞いたり、人が外出しているときに作業をしたりという対策でなんとかしています。

誰だって怖いものがある

 今回はスキナンの苦手な音についてさらっと書きました。大事なことは、「誰だって自分のことしかわからない」ということです。この世は自分とそれ以外で全く異なるものなので、なんでもかんでも他人に察してもらうことは難しいことが多いです。他人の脳みそサブスクがあったら参加してみたいのですが、現時点ではありとあらゆる問題を引き起こしかねないので、望み薄。だから本当の意味で自分を理解できる人なんていません。自分のケツは自分で拭くしかないことがほとんどです。だから生きづらい。それに、他人に悩んでいることや考えていることを聞いてもらうことはできますが、それは建前的な相談事なので、人にいえないような深い悩みとか打ち明けにくいプライベートな内容はその人の中に留まったままのことが多いですよね。(カウンセラーとか専門の先生に話す場合は違いますが)
 
 でも、自分の怖いものというのは比較的他人に開示しやすく、それでいて平和的なのではないかとスキナンは考えています。自分の好きなことを話す場合、極端にマニアックなものとかだと引かれることがありますが、苦手なものは受け入れてもらえる場合が多いと思います。というのは、他人は相手が弱みを見せてくることに関しては寛大だと思うからです。マウンティングの逆なのですから、言われていい気にはなりませんが、嫌な気になることもありません。意外と「そうなんだ、大変そうだね」とか「実はわたしは◯◯が不得意で……」なんて風に反応してくれるのです。苦手なものを聞いて、それを使ってなにかをしてくるような人間の場合は極悪人ですが、ありがたいことにこの世は極悪人がゴロゴロしているような世界ではありませんので、大抵の場合、悪い展開にはならないと思います。苦手なものを開示して、さらに相手が「なにか他にもあったらいってね」的な言葉をくれたときはありがたく、ホッとするかもしれません。その人のことは大切にしても良いと思います。
 
 《同情はできないが、立場の想像はできる》ことをエンパシーといいますが、スキナンはこのエンパシーこそが人間にとって一番大事な考える力だと思います。なんでもかんでも「それな」とか「わかる」とかスキナンはいいません。だって当事者でないから相手の本心まではわからないんだもの。でも「難しい問題を抱えているんだね」とか「気持ちは想像できる」とか、そういう風にいつもいっています。
 
 まぁ、同じ爆音恐怖症の方のブログとか見ると「それな!! めっちゃわかる~! わかりみがマリアナ海溝!」って叫ぶのですがね。

 人間のみなさんも、どんどん自分の苦手とか嫌いなものを公開して、後悔の少ない日常生活に少しでも近づいていけたら嬉しい限りです。また、自分に対して相手がなんらかの弱みを示したときは、静かに聞いてみてください。そしてそれが自分には理解できない内容だったときでも、「そういうこともあるんだね」と受け止めてみることが大事です。

曲がるカドには福来たる(1)

 こんにちは、そしてさようなら。スキナンです。
 自分のことを色々思い出しながら記事を作っているのですが、そもそもヒトの記憶ってどれくらい保たれるものなのでしょうか。当時経験したことを真にそのままに言葉にできているのか甚だ不思議なスキナンなのです。曖昧な箇所はきっと都合よく解釈されているだろうし、本当に嫌だった出来事はもうあまり思い出すことができないこともあるのです。
 でも、ある種の貴重な体験こそ書いておかないとならないような気がしてきて、書き出しているのです。スキナンみたいな変なヒトのいうことだって誰かにとっては娯楽だったり、何かの役に立ったりするかもしれないのです。
 
 今回は少しちゃんとした話にしようと思います。といってもどうせ面白おかしくなってしまうのですが……スキナンが特発性脊柱側弯症(とくはつせいせきちゅうそくわんしょう)という進行性の病気になって、対処療法を経たのちに手術をした話です。
 大丈夫、怖い内容は出てきませんよ。終盤にちょっとオペで背中を開いて金属を入れて縫うだけのことですからね!

スキナンは見た!

 そういえば、スキナンは自分の性別を明かしていませんでしたね。このブログはあまり性別が関連するような記事はないのですが、スキナンは生物学的な身体の作りとしての女に属しています。(今まであえてアイデンティティに関しては書いてきませんでしたが、書かないとわからない説明があるので)
 
 スキナンのこの脊柱側弯症が正式に発覚したのは中学1年の健康診断でのことなのですが、実はスキナンは6年生の冬前くらいに違和感に気づいていました。スキナンは中学受験をした家庭だったので、自分の身体に構っている暇はなかったのですが、自分が履いているスカートがいつもウエスト部分に傾きがあったのです。どういうことかというと、ウエストの右側だけがいつも下にずり下がってしまうのです。おかしいなぁとは思っていたのですが、スキナンはいわゆる小デブだったので、ぶよぶよした腹の肉のせいだろうと思っていました。長いスカートを履くと、片方の裾が浮いているし、ジーンズを履けば片方の足だけくるぶしが出てしまうのですが、それは背骨の傾きによって身体に左右差が出ている証拠で、紛れもない側弯症のサインでした。
 
 スキナンは受験勉強の合間に、学校でもらっていた保険手帳を読んで該当のページを確認しました。どうやら立ったまま前屈した時に背中の盛り上がり方がおかしいと側弯症というらしい、というところまでチェックしたのです。いざ鏡の前でその姿勢をとったらば、それはもう綺麗な歪み(盛り上がり)が生じていて、これは重大なことなのではないか、と思ってしまったのです。しかしもうその年度に健康診断はありませんでしたし、来年中学生になったら診断が下るだろうなと思って、家族の誰にもいうことなく普通の生活を送ったのです。

答え合わせと解答探し

 スキナンは無事に受験戦争を抜け、中学生になりました。春の健康診断を終えると、予想通りに【特発性脊柱側弯症】の診断が下りてきたのです。当時スキナンの母は相当狼狽していたのですが、スキナンは自分の予見が的中したのでちょっとばかし誇らしくもありました。スキナンの学校ではまだ側弯の症状が出た生徒が少なかったのか、医師の紹介等がなかったので、母は対応できる病院や機関を探していました。とはいえ当時はやっとインターネットが快適に使えるかどうかという頃です。まずは近場からということで、スキナンはかかりつけの病院や、駅から遠くない診療科に連れていかれました。

 スキナンはあまりその時のことは記憶にないのですが、その手頃な場所にあった病院では「大したことない」「整体で治るんじゃないの」みたいなことを言われたり笑われたりして、全然取り合ってくれなかったそうです。母は適当な対応の病院ばかりであることにキレました。怒りのあまりスキナンを半ば引きずって病院から出たこともあります。当のスキナンは病状については疎かったので、背中がグニャリとしているだけなのに大変なことになってきたなぁと他人事のように思っていました。

特発性脊柱側弯症ってどんなものなのか?

 当事者の方以外には馴染みのない名前であると思いますので、真面目に説明しておきます。
 特発性脊柱側弯症(とくはつせいせきちゅうそくわんしょう)は、思春期頃の女子に最も発症しやすい、背骨が変形する進行性の病気です(男子にも割合は低いですが発症することがあります)。発生の原因は不明とされておりますが、一部先天性の遺伝による症状もあるということです。
 
 症状としては成長段階にある背骨が、首から腰にかけて段々とねじれてS字型や弓状に曲がっていくというものです。曲がり方や程度は個人差があるので、25度前後までの軽度であれば経過観察で済みますが、後述する、治療で進行が抑えられない60度程度以上の重度の歪みが生じている場合は、整形外科手術が望ましいとされるものです。症状の進行具合にも個人差があり、手術前の治療としてはプラスチック製の専用のコルセット着用が推奨されます。進行すると、曲がり方によっては肺や内臓が圧迫され、腰痛や麻痺などが生じることもあり、日常生活に支障が出ることがあります。また、重度では明らかに上半身が歪んでいるとわかってしまうので、他人の視線が辛く感じたり、嫌な思いをする人がいることも事実です。
 
 手術を行う場合は概ねの場合、背中を切開してチタン等の医療用金属の固定具をボルトで打ちこみ、補強としてそこに腰や肋骨などから切り出した骨片を置いて、金属と背骨を癒合させていくというようなものが主流のようです。技術の進歩により、ボルトや金属の部品が変わっている可能性もありますので、術式はこれ限りではないと思います。(スキナンが手術をした時はチタンの金属棒2本を並べて、腰の骨を切ってパラパラと振りまいてボルトで締めあげてもらいました。傷の長さは背中が40センチ、右の腰に10センチくらいです)
 
 ここで注意してほしいことがあります。民間のいわゆるカイロプラクティックや整体、鍼灸などはあくまでも一時的なものであり、継続して進行を抑制するものではありません。それにどうなっても責任は取ってくれません。どうなっても構わないという人以外は検討しないでください。お金と時間の無駄です。手術が推奨されているのはまだ背骨が柔らかい成長期の頃であり、成人して背骨が固まってしまってから外科手術をするとなると、重度の場合予後も辛い思いをすると聞きます。どうか判断を謝らないでほしいと思います。ある程度進行してしまうと、治療手段は現段階では手術しかありませんので、将来を考えて選択してほしいです。

そうだ、患者会

 スキナンの母は病院の情報をしらみ潰しに漁りました。回線の遅いインターネット黎明期のパソコンもなんとか使い、近場で専門医がいないかどうか探し続け、彼女は患者の会にたどり着いたのです。脊柱側弯症の患者たちが情報を寄せ合うホームページで、現在も運営されています。紹介していいかどうか迷いましたが、情報を探している人がいるかもしれませんので載せます。スキナンの担当の先生もここに紹介されている医療機関の先生で、実際にここの先生に手術してもらいました。ここであれば信頼できますので、診療を検討される方は安心して通ってください。
sokuwan.gr.jp

 スキナンの母はここのホームページに載っている病院への紹介状を、かかりつけ医に頼みこんで、担当医療分野が違うのにもかかわらず温情で書いてもらいました。治療への切符を手にしたスキナンは、こうして専門医へ通うことになったのです。

コルセット初体験

(※記憶違いの可能性もあるので、ある程度憶測混じりで書いています)
 スキナンは当時歯医者や耳鼻科にもよく通っていて病院慣れしていたので、検診は好きでした。身長や体重を測ったあと、レントゲンもあっさりと撮れました。

 スキナンが治療を受けていた時はまだ総合病院の一角に設けられた整形外科のエリアにしか担当の先生は在籍してなかったのですが、小さな個室でレントゲンを見て一言、「もうこれはコルセットだな!」と軽くいいました。この先生はとっても、なんというか、さばけていて、まるで「夕食は鮭フライにするか」みたいなノリでしたが、その突き抜けた雰囲気が医者っぽくなくて、とても良かったのです。とにかく、診療初日でコルセット装着が決定したのです。コルセットというと、中世のあの無理やりウエストを縮めるようなオシャレ装具を想像しますが、プラスチックで型を取って作るというので、後日型を取りに行きました。

 コルセットの型は技師の方を呼んで、下着の上に包帯を巻き、上から石膏を塗って固めてからハサミで切っていくという手法で取りました。工作で石膏を使うことがありますが、あれをヒトの身体の上でやるというので、面白くて仕方がなかったスキナンは小デブの腹に生暖かい石膏がぺたぺたと塗られていくのを体験しながらダブルピースをしていました。技師の方も驚いていましたが、どうやらこういう時は辛くて泣いている子どもが多いようなのです。スキナンにしてみれば、こんな摩訶不思議な体験なんてもう一生しないでしょうから、嬉しくて仕方がなかったのですが。母もスキナンは変わっているといっていました。考えてみれば、スキナンはウルトラポジティブな性格だったようです。このコルセットが完成したら、これを四六時中身につけて生活しなければならないというのに、呑気なものです。

 できあがったコルセットの見た目は、厚さ1センチ程度の薄橙色の半透明のプラスチックが腰の下部から胸の上までを一周ぐるりと覆ったものでした。プラスチックには空気の穴がいくつか空いていて、後ろ側にマジックテープで着脱兼締め付けの調整機能がついたものでした。内側には側弯箇所に合わせてスポンジがついていて、これで曲がりを支えつつ、抑えるということでした。

 すごく簡単に説明すればプラスチックの甲冑です。擬似甲殻類です。エッビカニカニです。通り魔に刺されてもまずナイフは通らないな、と思いました。この鎧と末長くお付き合いするというのですが、毎日装着するというので、ちょっと面倒なことになったなと思いました。寝ている間以外は原則着用するとかいう、RPGの筋肉系キャラクターみたいなことが現実になってしまいました。装備すれば確かに防御力は上がるのですが、若干動きが制限されることと、何より暑いということが気になりました。スキナンが通っていた学校の制服は生地がしっかりめで作られていたので蒸れがすごくて、下にこれを身につけるのは結構抵抗がありましたが、治療は治療です。

 こうしてリアルに身体に防具を装備して、無駄に高い防御力と共に生活する日々が始まりました。

学校生活でのコルセットの思い出

 こうして始まったスキナンのコルセットでの学生生活ですが、基本的にはずっとコルセットがついたまま授業を受けて、体育の時だけ着脱するという感じでした。コルセットの着脱に当たっては、皆変わったものを着けるのは大変そうだなという目で見ていましたが、スキナンの学年の生徒は本当に一人ひとりが大人で、誰も偏見を持ったり嫌なことをいってきたりする子はいませんでした。周りの環境に恵まれていたことには今でも感謝しています。
 
 スキナンにとってはトイレに行く時が一番厄介でした。どういうことかというと、コルセットは腰の下まであるので、パンツの上からコルセットをつけないとパンツが広がって履けないのです。つまり、トイレに行くたびにコルセットからパンツを引っ張り出しておろし、またずり上げてゴム部分を中に押し込んで履かないといけないのです。コルセットの中に汗と摩擦防止のためにタンクトップのシャツも着ていましたが、年がら年中蒸れていて、痒かったのも(しかも痒くなっても掻けない)地味に辛かったです。おまけに冬場ははスカートの下にタイツを着用せねばならず、毎回トイレで孤軍奮闘していました。よくあんな面倒臭いことを続けていたものだと感心してしまいます。冬場は体育から帰ってきた時のつめた〜いコルセットも嫌でしたね。
 
 あと、これはコルセットのせいなのかどうかはわからないのですが、コルセットは胸の上部まで覆っていたので、全くといっていいほどおっぱいが成長しませんでした。さらしの上をいく強度のものが一日中巻かれていたので、やむなしですがちょっと残念かもしれません。当然ブラジャーもできず、ずっと小学生が初期に着るタイプの下着をつけていました。最終的にコルセットが外れたのは中学生が終わる頃なのですが、その頃には成長期も終わり出していたので、スキナンの第二次性徴は下半身のみになってしまった可能性があります。もしできることならアンナミラーズみたいなタイプの……なんでもないヨ。

 ついでに思い出しましたが、コルセットは腕の付け根近くまで高さがあったので、脇のおけけを伸ばしっぱなしにしていると内側に挟まって痛いということがありました。そのためスキナンのメインの手入れは脛ではなく、脇でした。
 女子には脇にそんなものは生えないというのは紳士諸君の幻想ですので、悪しからず。

経過観察とその後

 コルセットとのイチャイチャ生活を大体1年くらい続けたのですが、スキナンの背骨はわがままボディを貫いていました。ボーン・キュッ・ボーンとS字に曲がっていってしまったのです。骨だけに。身体の中でフレミングの法則が起きているみたいな感じになってきていて、好き勝手な方向に骨がうねうねしていったのです。

 スキナンが治療を始めた時は40度そこらだったのですが、あれよあれよという間に60度が見えてきてしまったので、担当の先生は「こりゃもう手術だな!」とまた「ビールにエビフライは最高だ」みたいな感じでいいました。母もスキナンもこんなあっさり手術が決まると思ってなかったので、ええっとたまげたのですが、タイミングも他にないし、夏休みを利用して手術をすることが決まりました。中学2年生にしてスキナンは人間の開きを体験することになりました。

 
 (長くなったので後半へ続きます。)

敷かれたレール、轢かれる子ども〜〜勉強なんて、親なんて〜〜

 こんにちは、そしてさようなら。スキナンは今日もちゃーんと生きていました。
そんなにポンポンと記事が書けるわけもなく、今回もなんとなく前回(これを書こうかなぁ)と思ったことを捻り出しているのですが、とにかく。
今回のテーマはずばり、スキナンと学習塾のことなのです。

子どもの夢は親の夢、親の夢は子どもの夢

 スキナンはとにかく小さめの頃から塾媒体での学習をさせられていました。させられていたというのはつまり、自分で通いたいということではなかったということです。この世の中で、一度でも塾やそれに準ずる機関に生徒として通ったことがあるヒトの中のほとんどは、自らの意思で通っていたわけではないのではないでしょうか。もちろん自分から申し出て通っていた尊いヒトも多く存在していますが、子どもという、家庭内の金銭の管理を任されていない人間が塾に直面するのは大抵家族の意志によるものです。やれ○○受験だ、学内での成績が下がった、将来××になるには云々という内容で教室の門扉をくぐらされることが大体の動機になると思います。

 スキナンの育った家庭もまさしくそういう状況に置かれたところでした。元々スキナンが小学校低学年あたりまで暮らしていた地域はのほほんとしていて、受験とか勉強の優劣でどうのこうのというような雰囲気はなかったのです。しかし、スキナンは引っ越しをすることになりました。新天地では小学校のすぐ近くに中学校があったのですが、当時はその中学校の風紀が乱れていて(外に喫煙者がいたり、小学校への侵入者が発生したりするような感じでした)、そんな危ない学校に我が子を通わせて我が子が不良になったらどうしようと考える保護者が多かったのです。また、スキナンの住んだ地域の周囲には進学校が沢山あり、“受験戦争”にスキナンが巻き込まれるのは時間の問題だったのです。

 スキナンの父は、自分の夢を子どもに勝手に託して叶えさせたいタイプの人間でした。当然彼はスキナンに中学受験をさせようと躍起になりました。スキナンは習い事もいくつかしていましたが、その中に学習塾が加わったのは小学校3年生の冬の頃です。スキナンの母はトップオブザマウンテン気質ではないので、本人ができるレベルにあった学校で良いと思っていたのですが、父は子どもを自分の分身と思い込んでいるので、子どもを限界まで追い詰めることで自分はこんなにやっている、こんなに偉いと威厳を保っていました。スキナンは生活を管理されていたので、自分の自由な時間というものはご飯を食べている時と、寝ている時と、塾がない曜日(大抵は習い事が入っている)の夜のちょっとした時間くらいのものでした。その他の日は学校に行って帰ってきたら塾の支度をし、塾に行って帰ってきたら学校の宿題と塾の宿題と予習と復習をやって深夜まで何かしらずっと科目と向き合う生活を続けていました。中学受験をしたことがあるヒトにはある程度共感してもらえるとおもうのですが、あれは子どもの学習意欲ではなくて、親の見栄対決が中心になっているので、親が勉強をして子どもの脳に無理やり詰め込んでくるのです。♪ これっくらいの♪ おべんとばこに♪ 算数国語理科社会と親のエゴをめいっぱいつめて♪ くるのです。先っぽだけだからとかいいでしょとかそういう理屈の方がマラ、じゃなかった、まだマシだったのです。

 高学年になって算数が足を引っ張り出す頃には、家庭教師もつけていました。習い事も辞めて、平日は毎日学校と家と塾の往復、たまに家庭教師に寝そうになりながら苦手単元を教わり、週末はテストに追われ、学校の宿題はほぼ当日に学校でやっていました。
スキナンはそんなこんなの荒波に揉まれてどうにか受験を終えました。決して優秀ではなかったスキナンは周囲の最大限のサポートを受けて、どうにか父のお眼鏡に叶いそうなランクの中高一貫校に合格したのです。

井の中の蛙大海を知らずとでも思ったかこのヤロー

 スキナンはこうして第一関門を突破したのですが、私立のある程度のレベルの進学校に通うということがどういうことを意味するか、大体の人間はわかると思います。
そう、また新たな戦争が始まるのです。それも同じレベル同士の人間達で一斉にヨーイドンが行われるのです。そしてそれは小学生の頃よりも激しい戦いになるのです。

 中学受験をするような家庭の親というものはエゴエゴのエゴが身体に詰まり切らずに溢れ出しているような人間が少なくありません。だって子どもの人生設計を今まで親がしてきたのです。よほどの事がなければ、まだ鞍に跨って手綱を握ったままでいたいのです。一方で子どもの側も精神や自我が成長してきますから、自立したいのに親が過干渉というジレンマに遭ってしまいます。スキナンの家庭でもそれは起こっていました。定期テストの管理を親がしてくるのです。スキナンは子ども心にもうほっといてほしいと思っていましたが、いかんせん今まで親の管理下でしか勉強をしたことがありませんでしたので、勉強の仕方、進め方がよくわかりません。

 ここで問題になるのは、クラスの生徒達の学力が拮抗しているということです。彼らもまたスキナンと同等かそれ以上の学力があるので、うまく親と距離を保てた場合や、既に自立して自分で学習する方法を身につけている場合、親が干渉してこないので全て自分の意思、責任として学習に向かえるのです。そうすると段々と意欲にも学習の質にも量にも差が開いてくるのです。なぜなら彼らは自分の欲求とも折り合いをつけて自己管理ができるからです。スキナンのように監視下に置かれていては、好きな時間もろくに取ることができません。以前の記事で触れましたが、スキナンはヲタクの道を歩み始めていたので、漫画を読んだり空想に耽ったりする時間が欲しかったのですが、せっかく親が望むレベルの学校に入ったというのにまだ彼らの視線がまとわりついてくるので、生活リズムが変わらないのです。結局窮屈なままの生活じゃないか、と思って忙しく暮らすしかありませんでした。

 スキナンは初めはそこそこついていけていましたが、そのあとは中途半端な成績かそれ以下しか取れませんでした。すると親は怒るのです。こんなことでどうするのか、と。確かにスキナンの側でも苦手な科目や吸収し切れない学習量に早々に苦手意識や諦めが出ていて努力を怠った面もあったのですが、今思えば「そもそもこんな無理をさせてこの学校に入れたのはあんたのせいじゃないか」「自分の夢を押し付けられた結果をちゃんと受け入れてくれ、現実を見ろ」という怒りが根本にありました。学力というのはどうしても遺伝的な要素が関係してくるもので、スキナンの場合は小学校の頃から理系科目がさっぱりダメでした。スキナンの父も母も文系なのです。いくら学校の数学の問題を教わろうと思っても、もう彼らの手には負えない難しさまで到達してしまい、誰も解説できないのです。それなのに偉そばっていて、怒るのです。何も教えてくれないのに管理だけしてくる人間に誰が従おうとするでしょうか。スキナンが放り込まれた井戸は親の井戸なのであり、外の大海にどんなに賢くて強い遺伝子エリートモンスターがうじゃうじゃいるかなんてわかっていなかったのです。彼らエリート蛙達はちゃんと授業についていけるだけの素質や基盤を持っています。だから残されたスキナンのような“なんとなく親の夢を叶えてしまった”人間の苦手科目の取り残され方が尋常ではなくて、たとえば数学の授業中にセンセーが何を言っているのか理解できたことは数える程度でした。進学校はまさに進む学校で、授業のスピードは矢のごとし、教わる内容は海のごとしでした。当時公立の学校ではいわゆるゆとり教育が始まっていましたが、進学校にはそんなものはなく、むしろ詰め込み教育を行っていました。中学3年間の間に高校1年までの学習範囲は終了し、高校2年から文系と理系に分かれ、高校3年生に至っては必修以外は選択科目で、日によって空きコマがあったりするような学校でした。

 スキナンが再び学習塾に通わされるようになるまでにそう時間はかかりませんでした。

 学校の数学の授業についていけなくなったスキナンはまず、学習支援塾に通うことになりました。中学受験の時の集団教室型とは違い、個別指導の教室に通って担当の講師から指導を受けるタイプのアレでした。スキナンはそこで周回遅れの数学を2年半くらい教わっていました。とにかく学校の授業についていくのがやっとのことだったスキナンにとっては、既に終了している単元を学習するのは抵抗があったのですが、数学は単元ごとに関連している内容が縦に連なった学問ですので、周回遅れでも意味があったのです。たとえば一次関数は二次関数、図形問題は証明問題とリンクしていて、前提分野がわからなければ次も理解が難しいというふうに。ただしスキナンの理解の遅れ具合は酷かったので、その二次関数でいえば学校で習ったのは中学2年生の頃で、基礎の仕組みを理解したのは数学の学習も終わる高校1年の終盤でした。(ちなみにスキナンが高校1年の頃は数Ⅱ・数Bをやっています)そんなレベルだったのです。その頃の学校の学習風景は数学が苦手な人間にとっては最早外国語の授業であり、センセーが口を開けて意味不明な言葉を垂れ流しているな、といった感じでした。

 スキナンはまた、英語も早々に詰みました。小学校の頃にちょびっと英会話の習い事をしていたので初めは面白かったのですが、疑問文がBe動詞と一般動詞とで混在してくるあたりから楽しい科目ではなくなり、テストでも散々な点を取っていました。学校では海外の教材を扱っていたため、その取り扱いがある専門的な英語教室に通うことになりました。スキナンが受けていたクラスは大人も生徒として多く参加していたので、違和感はかなりあったものの、独特な授業を受ける体験は面白いと思ったものでした。そこでは資格試験も扱っていて、スキナンは中学3年生くらいまでそこに通い、英検3級もそこで取りましたが、そのあとは辞めてしまいました。なぜなら、本格的に全面戦争を控えていたからです。

 そうです、スキナンはまた受験に立ち向かわなくてはならなかったのです。中学受験をした後には、エスカレーターか付属かその他の進路でない限り、さらに何かしらの受験が控えているのです。嫌な家庭に生まれてしまったものですが、親のエゴが子どもに繋がってしまっていたので仕方がありません。こうしてスキナンは大学受験戦争に巻き込まれていくのでした。

泳げないたい焼きくん

 高校になんとか進級すると、今度は文系か理系か、どの学校に行きたいのか等を見据えて生きていかねばなりません。中学受験と違って今度は学校ぐるみですから逃げようがありません。どんどん学習内容はレベルが上がり、今までついていけていない科目はもう捨てるしかないという段階にきていました。高校1年になって、やっと中学2年の単元が理解できたかどうかというレベルのスキナンは文系しか選択の余地がありませんでしたから、進路が決まったというか、退路が断たれたというほうが正しいでしょうね。

 スキナンは反抗期に差しかかっていて、勉強もしなければ生活も怠惰でした。ヲタク生活を充実させることのみを生き甲斐としていたので当然といえば当然なのですが、通っていた個別教室と英語教室を辞めて、受験目的の予備校に新しく通わされていたのです。勿論親の意向で勝手に決められた少人数制の予備校です。もうスキナンは諦めかけていました。いつまでも親(父)は追いかけてくるので、自分の自立ということは馬鹿馬鹿しいとさえ思っていました。自分の進路というものは親の進ませたい進路なのであって、子どもの選択権は既に失われていたのです。やる気が起きるわけがありません。しかし学校も進学校のため、プー太郎みたいなことも容認されないのです。鯛焼き機に挟まれたあんこみたいな立場でした。型からはみ出ることは即ち焼死を意味します。でも勝手に周りの生地である学校と親が固まって位置を決めてくるのですから、せいぜい横に広がるくらいしかできることがないのです(スキナンはたまたまですが体型的には横に広がっていきました)。

 しかし、予備校は意外にもスキナンにとって意味のあるものとなっていきました。家にいないほうが楽なのです。またこの頃スキナンは高校生でしたが、スキナンの弟が中学受験を迎えようとしていたので、父の関心は彼のほうにもシフトしていたのです。それと、予備校での友人関係が思ったよりも良かったのです。これまで通っていた個別教室はそもそも会話する相手がいませんでしたし、英語教室で大人と交流できるほどスキナンは度胸がありませんでした。それが予備校にくると、似たようなレベルのよその学校の生徒もいて、異文化交流ができるようになったのです。同じ学校から通っている親友も在籍していたこともあって、スキナンにとって初めて塾が楽しいかもしれないと思えました。また、予備校の先生方もすごくまともな大人で、スキナンの父のような視野の狭いワガママ人間とは似ても似つかない存在だったことも影響しました。彼らは、何故スキナンがわからないのかということは気にすることなく、何がわからないのかわからないところから一緒に考えてくれるようなちゃんとした人でした。本来塾の講師はこうあるものだと今でも思っていますが、とにかく徹底的に、スキナンが理解が及ばないのはどこの何が原因なのかというところからやり直してくれたのでした。

 スキナンは英語と古典文法とを中心に苦手が蓄積していてえらいことになっていましたが、一度木っ端微塵に分解し、一つずつ積み木のように重ねていくことで、学校での魔法の呪文を理解できるようになり、やっとのことで成長していったのです。裏を返せば、それだけのことをしないと、一般的な魚は鯛を真似することすら無理なのです。鯛焼きは腐ったらただの臭い液体なのです。

現実ってこんなもんだけど

 予備校という水を得てスキナンは徐々にですが、横に広がるだけのあんこから、バタバタしつつも一応泳げる鯛焼きくんになっていきました。しかし同時に周囲の同学年の人間も同じような強化合宿をしているわけですから、あとは消化試合というか、スペックの差によって処理できる量と内容差が歴然とするだけなのでした。あまり持って生まれた才能がどうのといいたくはありませんが、どんだけ頑張っても理工学部や医学部に進学したり、芸術方面に進んだりというようなことはできなかったのです。そこに到達できるような元気で柔軟な明るい脳みそは持っていませんせした。職業に貴賎はないとは表面的にはいっても、社会の登竜門は学歴であり、学力にはどうしてもランク付けがされてしまうのが日本の悪いところです。将来のことを考えるにつけ、もう戦いとしてはとっくに負けているなぁと子ども心に思っていました。

 スキナンは受験しましたが、合格した大学のレベルは通っている進学校の基準と照らし合わせると及第点とはいい難いところでした。勿論一般的な学生の平均レベルからすると、一定の(世間での知名度はそこそこあるという意味での基準)学校なのですが、スキナンの父はこの後に及んでも、スキナンの受験校の学部指定までしてきたような人間でした。最低でも東京六大学のレベルでなければ受験に成功したことには到底なっていません。

 スキナンは卒業までの束の間の休息の後、消去法で浪人を選択しました。せっかく予備校から離れたのに、また新たに予備校を探すのです。これまでお世話になった予備校は浪人生のクラスを設けていなかったので、出直ししかなかったのです。もうこの辺りにくると、受験は執念でしかありません。合格したのにそれは合格ではないと判断されているので、勉強の意義とか概念とかいうものも薄れてしまいました。残ったのは「あのオヤジ今に殺してやるからな」という気持ちだけでした。流石に今度ばかりは母と予備校を探し、自分でどこに通うかを決めて自分で申し込みました。もう管理されようものなら刺し殺してしまいそうだったので、父の存在はできる限り無視し、いないものとして扱いました。同学年の友人は合格した学校に通っているのがほとんどだったので、惨めな気分にもなりましたが、それはそれ、これはこれと踏ん切りはつけていました。戦うべくは親だからです。

塾に通いまくるという人生

 スキナンは浪人生も扱っている、超大手の予備校に決めました。これまでの人生で、小学校、中学校、高校と5つの学習塾に通ってきた塾のプロ生徒にとって、超大手予備校なんて屁のかっぱみたいなものでした。集団授業も個別授業も大人入りの授業も受けてきたスキナンにとって、大勢の人数で受ける講義形式の授業は楽ちんのちん以外のなんでもありません。唯一気になったのは、受けている浪人生の質がバラバラすぎて、この人は本当に受験するのだろうかというような生徒(バイトばっかりしているとか、教室にデートしにきているようなカップルみたいな人、その他環境の違い)も散見されていたことくらいです。

 現役時代に既にスキナンは英語と古典と現代文の科目には自信があり、予備校ではさらに専門的に学習単元を極めたことで、漢文もかなり理解が及ぶレベルに達し、必死になってやっていたのは主に世界史でした。スキナンはとにかく暗記科目が大の苦手だったのです。英語や古典にも暗記する単語や項目がありますが、勉強してきた年数が長く、慣れもかなりありました。ところが世界史は高校2年生からしか始まっておらず、定着するまで単元の反復ができません。暗記する項目の数も尋常ではなく、しかも目指しているのが六大学以上となると出てくる問題のレベルも高いので、重箱の隅問題や記述問題は捨てて、最低限の点数を死守するという戦法を取らざるを得ませんでした。参考までに、スキナンの現役時代のセンター試験の世界史の点数は33点でした。浪人してやっと60点です。解き方のテクニックや時間の配分にコツがある英語や古典に関しては現役時代から9割以上、現代文でも、問題製作者の意図を汲み取ることで8割をキープしていたことに比べ、純粋な暗記力がいかに残念だったかわかるでしょう。今でも勿論暗記科目はスキナンは苦手です。法則もなく物が羅列されているだけにみえてしまって、頭に吸収できる量にすぐに限界がきてしまうのです。同様の理由で数学は公式の暗記が出来ず玉砕(テスト開始は公式の書き写しから始めて時間もなくなるし途中で忘れるし、公式を間違えるという三重苦も)、理科の化学式が以下略、物理の計算式が以下略というような事態だったのです。今から思えばスキナンは哲学とか文芸思想みたいな分野のほうが向いていたと思いますね。高校で学習した倫理の授業では暗記項目はからきしでしたが、自分の思考を述べる記述式のレポート課題では最高評価でした。ヲタクだったから創造性が豊かだったのかもしれませんが、多分配られたカードでプレイするのではなく、新しく何かを生み出すほうが断然やりやすかったのです。

自分で勉強するということ

 スキナンは浪人時代、初めて親に干渉されることがほとんどない状態で勉強をすることができました。自分でペースと時間を決めて計画的に学習を進めるということは、自立の一種です。ヲタク活動についても勿論スキナンはある程度抑制していましたが、それが可能だったのは他のストレス要因が少なかったからだと思います。想像以上に親の過剰なストレスがあったのだということにようやく気付いた頃でもあります。学校生活もなく、家と予備校の往復のみの生活でしたが、スキナンはたまたま教室で仲の良いヲタクの(←ここ超大事)友人ができたので、息抜きもできていました。

 心身の安定があるだけで、学習時間や内容がこんなに意味のある深いものになるんだなぁ、などと感じる余裕もあった気がします。実際は世界史の暗記にてんやわんやだったわけですが、少なくとも対父へのプレッシャーが小さくなったので、自分の問題に向き合う時間もあったわけです。自分でも変な気持ちですが、浪人時代が一番濃い勉強をしたように思います。自分の自分による自分のための勉強ってやっぱり真剣になれる物だと思います。相変わらず暗記は全然できませんでしたが、どうでもいいやということではなく、苦手なりに努力はしました。また、大手予備校だけあって、一流レベルの講師が展開する講義は純粋に知識の底上げをしてくれたことも助けとなりました。授業も興味深く、終盤の英文法や古文などは半ば娯楽として聞いているほどになっていました。わからない分野が出てきても、そこまで焦らないようになってきたともいいます。試験では取れるべき箇所を確実に取れればそれでいいからです。満点が取れるまで学習する必要はないからです。予備校には講義の他にも色々な制度や利用可能な施設がありましたが、スキナンは静かな場所にいると勉強しにくい質だったので、いつも人が集まってざわついている食堂みたいなところで勉強して、たまにヲタク友達と買い物に行ったり、ご飯を食べに行ったりしていました。勿論彼らとはかなり長い時間ヲタクの話をしたり、人生のくだらないことを話したりという、子どもにとって大事な時間もとっていました。楽しい時間があった分、しっかりと学習もできたのです。

 浪人を経て再び受験に臨んだスキナンは今度こそ自分にあった学校に合格しました。うるさい父の最低条件も満たし、スキナンは好きな学校を選ぶことができました。細かいことをいえばレベルの高い学校には落ちましたが、自分のレベル帯だと思ったところには全て受かり、選択肢が6つもあったのです。最高に嬉しい瞬間でした。この1年間は自分で塾を決めて自分で勉強して上手くいったのです。学習機関とはこうやって利用すべきだったのです。自分から出したものでないと、利点も欠点も発見して見つめ直すことが難しいものなのです。

 かくして、およそ10年にも及ぶスキナンの塾遍歴は終わりを迎えたのでした。

戻り鯛焼きとして

 さて、ここまでつらつらと書き連ねてきましたが、スキナンは実はまた塾と関わりを持つようになったのでした。あれだけ通いまくってさぞ辟易しているだろうと思いきや、スキナンはバイト先に個別指導型の塾を選んだのです。

 つまり、教わっていた立場から今度は教える側として戻ったのです。塾生活が染み付いてしまって取れなくなっていたわけではなくて、単にできそうなバイトがそれしかなかったという実に虚しい理由なのですが、とにかくスキナンは塾講師のバイトというものと付き合っていくことになるのです。でもそれについて書くとまた長い話になるので、続きは次の記事でということにします。

 スキナンと塾は切っても切れない縁なのでした……

捨てる紙あれば拾う紙あり

 こんにちは。そして、さようなら。スキナンです。

 今回は前回日記の話の中で触れた、白い紙について書こうと思います。スキナンは自分でも変態だと思いますが、白い紙が好きで、買い溜めてはうっとりする生活を送っているのです。

紙、紙、紙だらけの毎日

 スキナンは小学生の中学年頃から、いわゆる進学塾に通って毎日大量の宿題やテストに追われるタイプの子供でした。中学と高校は一貫校に通い、現役で合格した大学のランクが低いといわれ、浪人を1年しました。
 
 この長い長い期間、死ぬほど紙を使ってきたわけです。ウェブ上で計算問題とかできませんし、何でも書いて覚えるのが主流だった時代です。もちろんスマホもありませんから今の学生のように暗記アプリとかそういうかっこいい物だってありません。全部手書きで作っていました。スキナンの周りの人間は、ノートに赤や緑の下敷きで隠れるような色で重要ワードを書いて、隠して確認している人がほとんどでした。ちなみにスキナンのおすすめの色は黄色です。あの色結構隠れるし、字が読みづらいお陰で、ぱっと見で答えが見えてしまう事故率も低めでした。
 
 とにかく、紙だらけの生活をしていたのです。ノートらしい冊子を何十冊使ったかわかりません。裏紙も死ぬほど常備していました。そんな中で、紙質や使い方に関してあれやこれや考え出すのは時間の問題だったのです。

マス目と行数問題

 スキナンは小学校の頃はおとなしく学校の決まりに従ってちゃんとしたノートを使っていました。というか、学習指導要項に多分何年生はどういうノートを使うって決め事があったんでしょうね。買えるノートの選択肢が少なかったので、決まったものを使わざるを得なかったということです。スキナンは小さい頃から文房具が好きでしたが、学校用のノートに関してはジャポニカ系列の物を使うことが多かったように思います。中には可愛らしい柄付きのノートもありましたが、もう少し年齢の上の人間用だったり、英語や音楽用だったりしていました。(スキナンの頃は英語学習なんてありませんでした。英語教室にも少しだけ通っていたので、それはそれでノートを持っていましたが、うまく使えていたとは思えません)
 
 学校のノートって余りがちなんですよね。だってノートには決まったことしか書けないのです。センセーのいったことや、黒板に書いてあること以外のことを勝手に書くといけないのです。宿題の提出もあるし、余分なことを書けるのは自由帳くらいのものです。
 また、学年によって例えば漢字の練習帳などはマス目の大きさがある程度決まっていたので、これも練習量が終わってしまえばあとはいらない紙になってしまいました。
 
 スキナンの母は、この余分になった紙を切り取って、電話のメモなどに使っています。もう10余年は使っていますが、いまだに大量に残っています。スキナンには弟もいて、彼も同じような紙生活を送っていったため、二人の分をあわせると、死ぬまで使えると思います。

 現役を終えて老後を電話のメモ書きとして生きるノート達には様々なマス目や罫線が引かれたままになっていますが、これは消すことができず、なんだか不自由に見えることがあります。ノートは使命を果たしているので全く悪くないのですが、こちらの年齢がそのノートと合わなくなると、途端に使いにくくなってしまうものなのです。
 
 スキナンは贅沢にも罫線の幅が細すぎるとか太すぎるとか、インクが濃いとか薄いとか、そんなことが気にかかってしまうようになったのでした。そう、スキナンは段々とこだわり始めてしまったのです。

わら半紙という故郷

 さて、スキナンは中学生になり、ノートの制約から解放されました。スキナンは中学受験時の板書の多さに、自分の字を小さくする術を磨いたため、小学校高学年の時の学校のノートは既にマスの余白が目立っていたのです。もちろん自分の字のサイズにあった罫線のノートにすぐに切り替えました。そしてお楽しみとして、色とりどりの柄がついているようなノートも買っていました。大きめの文房具店に行き、コーナーの端から端までノートをチェックしてはどんなオシャレでカッコイイノートがあるのかとわくわくしたものです。

 ちなみにこの頃のメジャーノートといえば皆さん一度は使ったことがあるでしょうが、campusですね。第4世代の柄で、当時はデザインが一新されてまもない頃でした。(ちなみにcampusノートは第2世代以外は全て使用したことがありますが、色味がシンプルでかつ可愛いところが気に入っています。貴重な初代ノートは私のコレクションとしてどこかにしまい込んであります)

 それまであまりメーカーに拘っていなかったスキナンですが、ヲタク気質がすぐ出てきてしまうスキナンは、それから色々なメーカーのノート類を集めるようになったのです。

 スキナンはマス目のことは気にしなくなりましたが、今度は効率を求めるようになりました。つまり、多用途で使えて、コスパに優れる紙が欲しいと思っていたのでした。学校や学習塾用の各科目のノートは必要だとしても、自宅その他で計算問題や単語の暗記に使用するためのノートは、別にノートの体裁でなくても構わなかったのです。

 スキナンにはわら半紙が懐かしく思えました。小学校のプリントなどでよく使用されていた、あの薄く茶色や灰色がかったしっとりした肌触りの紙のことです。雨に濡れたり汗を吸ったりすると大変なことになってしまいますが、鉛筆で書くときのザリザリ感がやみつきになりそうなあの紙のことです。何かを書き記して保存するの以外であれば、ああいう紙でいいのになと思っていました。何かを覚えたり考えたりしている時に罫線上に沿ってきちんと線を並べるのはなんか違う。そういう風な気持ちもあったのかもしれません。マス目や線がついていると、それに従ったものになってしまうような感覚。もやもやしたまま過ごしていました。

 スキナンはその後様々な文房具を見て、何か自分にあったノートはないかとチェックを欠かしませんでした。時折目につくとっておきのデザインのノートや、見たことがないような紙のノート、ポケットやカバーがついたノートなどは購入し、いつか使うかもと思ってしまい込みました。気づけばスキナンの棚には未使用のノートが大量にストックされ、そのどれもがもったいなくて使えないという妙ちくりんな状況になっていました。また、スキナンはその頃ルーズリーフにも手を出していました。学校に持ち込む紙の量を少しでも減らしたかったのです。お陰でノートと共に大量のルーズリーフの袋も溜まり、趣味の漫画集めも相まって、部屋は紙王国になっていました。

 ちなみにちなみに、ルーズリーフはmarumanが一番のお気に入りでした。紙の表面がツルツルしているのに引っ掛かりが少なく、また罫線の薄い青色が好きだったのです。また、カラーのルーズリーフも売っていて、浪人時代にはよくこれに書いて気分を上げていました。

そして無地との出会い

 時は流れていきました。スキナンは大体高校生です。この頃になるとスキナンにとってノートは使用用途によって分かれていました。
 
 まず、他人用です。意味がわからないと思いますが、外の世界で使用するためのノートです。主に学校やその他で人に見せたり、情報を書いて共有したりするためのノートです。

 次に、雑記(暗記)用です。これは人に見せないノートで、各科目の暗記項目から適当な落書き、時に意味のない試し書きの羅列があったりするようなノートです。

 最後に、観賞用のノートです。これは使いません。ページの外観や手触りや匂いを楽しむだけのノートです。ペットに近いかもしれません。たまに手にとって楽しんだあと、また収集ボックスに戻していました。他に、友人にプレゼントするために買ったお高いノート類もこれに含まれます。

 スキナンにとって長年の悩みだったノートの問題は大体この分類制度で解決していました。メーカーでいえば、無印良品さんのノートにスキナンはすぐに目をつけました。5冊パックで200円くらいのノートはずっと愛用していました。安くて紙が白過ぎず普段使いに向いていて、安くて安い(ここ大事)。学生にとって紙代は馬鹿にならなかったのです。
 
 このあたりになると、スキナンはノートの中に無地であるという利点を見つけていました。無地のノートであれば、科目を問わず何でも書ける。図も、絵も、方向だって気にしなくていいし、から傘連判状だって書けます。しばらく家で無地ノートばかり使っていた時期もありました。

(スキナンは無印良品さんから販売されていた週刊誌タイプの無地ノートは本当に好きでした。そう、わら半紙なのです。わら半紙の寄せ集めノートだったのです。暗記用からお絵描き用から書き殴り用まで目一杯使っていました。表紙がぬるっとしていて油の香りも良かった。再販して欲しいなぁ。無印良品さーん。ちらっ、ちらっ)

 お金に余裕があるときは、スキナンは伊東屋あたりの高級コーナーで海外製品にも手を出しました。モレスキンとかね。でもスキナンが好きなのは普段使い用のノートで、こういうのはもれなく観賞用に回ってしまいました。逆にいかにも子供が使いそうな、厚紙が表紙で、ピンクとかオレンジとかの派手な色で罫線をとりあえず引いてあるだけのノートは大好きで、今でも買ってしまいます。大概これらももったいないといって使わないのにね。

紙様へ

 あまり話がまとまらなくなってきたのでここらで一区切りといきたいところです。
 スキナンはその後も紙を集めています。学生時代より使用頻度が減ったものの、今まで観賞用だったノートをようやっと使ってみたり、わら半紙の感触を求めて小さい子供用の落書き帳を買ったりしています。楽しいです。紙との触れ合いはスキナンにとってもはや癒しです。スキナンは紙の匂いも大好きなので、ノートや本の間に顔を埋めたりもします。(顔の脂がつかないようにしないと大変なことになります)古いものだと間に紙魚(シミという薄くて白っぽい静かな虫)がいたりすることもあって、それはそれで味があって好きなのです。

 スキナンは学習塾のバイト(これについて今度記事にしようかな)をしていたとき、あまりにも紙が大量に必要だったので、クロッキー帳に手を出しました。それまで絵を描く人の道具だと思っていたのですが、結果的には今でも愛用するほどクロッキー帳は普段使いの無地ノートに向いていることがわかり、何冊か持っています。

 書いていたら習字用の半紙が食べたくなってきました。あれ、綿菓子みたいに見えませんか。100枚くらい毎に挟まっている色付きの半紙なんかキャンディーみたい。あれ、わからない?(スキナンは幼児の頃絵本の端っこを千切って食べていたので……半紙は食べたことがありませんが、美味しいですよ、紙。)
 
 話が脱線しましたが、紙を変えるだけで人生がちょっと楽しくなるのですよ、人間は。高級品といっても車やアクセサリーまではいかないので、ちょっとお金があれば、贅沢ができます。紙はデジタルのデータと違ってうっかり全消去とかもないし、匂いもするし、その人ならではの書き味が出せるものです(眺めたり触っているだけのタイプは経年劣化という楽しみがあります)。前回の日記の記事でもいいましたが、アナログって面白いと思います。
 
 紙は生きていないけれど、こちら側の気持ちを感じ取ってくれているような気がするのです。スキナンにはそう思えるのです。

ヲタク日記、時々自分

 こんにちは。そしてさようなら。スキナンです。
 今回は日記についてスキナンの思い出を書きましょう。

 日記なんて誰が書いても同じような物じゃないかと思うでしょうが、スキナンは日記の使い方が少し変だったのです。このところバレットジャーナルを始めとする小洒落た記録手帳みたいなものや、自分探し啓発ログみたいな手帳が各方面に発達していますが、スキナンが日記を書いていた20年ほど前にはそういう画期的な物はありませんでした。しかもスキナンはまだまだ子供でした。
 さあ、スキナンがどんな日記ライフを送っていたか見てみましょう。

日記というルーティーンの大変さ

 皆さんは今までに日記を書いたことがあるでしょうか。
 いわゆる、

 ーー土曜日。今日は朝から晴れていたので洗濯を2回して、その後スーパーに買い物に出掛けた。お買い得商品を見ていたら、たまたま大学時代の旧友に出会した。予定を変更し、午後は近くのカフェでコーヒーを片手に思い出話に耽っていた。気がつくと夕方になっていて、急いで帰宅したが、洗剤を買い忘れてしまって昨日の洗い物の残りが出来なくなってしまった。やる気もなくなり、晩御飯はレンジでチンするタイプのインスタントにしたーー

 こういう日記です。

 たいてい日記というものは、毎日つけられるような几帳面なしっかりした人以外が継続するのはなかなか難しいもので、スキナンもその1人でした。でも、スキナンの場合、日記というよりは、誌面上の読書感想文だったり、空想だったりするものが多かったように思うのです。

 スキナンは過去の夏休みの宿題で幸いにも日記の課題が出されたことがありませんでした。(アサガオの観察日記はありましたが、水やりをサボったため数日で枯れてしまい、適当に終わらせた記憶があります。文よりも絵が壊滅的に下手で難儀しました。)そのため日記に密かな憧れがあったのです。小学校でも交換日記が流行っていて、少数の友人間でノートをまわしたことがありましたが、途中で止まることがほとんどで全然日記らしくはありませんでした。

 そんなスキナンが初めて手を出したのは、文庫本タイプの白紙の小さな本のような日記でした。日付以外は白い紙がずっと並んでいることに少なからず興奮しました。
(※おそらくこのあたりから“白紙萌え”が始まったのですが、これについてはまた記事にします。)

<この何も書かれていないところをこれから自分の体験で埋めるんだ!>
 冒険家が新しい土地を発見したらきっと皆こんな気持ちでしょうか。
 日記というものは大体の場合、年始始まりや新年度始まりが定番で、スキナンの物も年始始まりだったので、買ってきた当日に意気込んで日記に対しての抱負を書いていました。

 ……3日で書かなくなりました。そりゃそうですよ、今まで日記らしい記録を付けたことがないものですから。何をどうやって記せばいいのか見当がつきません。
 当時のスキナンは中学生でしたが、漫画に目覚めてしまい、暇があれば単行本を読みふけるばかり。キャラクターの活躍に一喜一憂するのが生きがいになり、ごく普通の人間から2次元ヲタクへの過渡期へ向かっていたのです。

 ヲタクというものは、とかく自己表現をしがちなものです。イベントに参加したり、グッズを集めたり、イラストを描いたり小説を書いたり。スキナンにはまだそういう感覚がありませんでしたが、新しい話を読んでワクワクしたとか燃えたとかそういう気持ちを共有する場は欲しいと思っていました。しかし周りに共通の友人はおらず、家族は漫画ばっかり読んで勉強はいつするのかというスタンスだったので、吐き出すところがなかったのです。
(スキナンが中学生だった頃はまだそんなにネット文化が発達していない頃で、国内ブログサービスも出てきたかどうかという時代ですので、当然パソコンを使って何かを発信しようとは考えつきませんでした。そもそもパソコンが父の所有する1台しかなく、触る機会すらまれでした。)

 そこで日記の出番です。スキナンは日記の中に、自分の読んだ漫画の感想を綴りました。
 書き方がわからないので、とりあえず箇条書きにしたり、場面の説明をしたり、キャラクターの良かったシーンを表現したり。1日分のページに納まらない時は2ページ、3ページと横断して書きました。そしてたまに思い出したように日々の愚痴を入れたり、良いことや悪いことを混ぜたのです。

 こうしてスキナンは新たな日記の書き方を編み出したのでした。

スキナン、1人芝居の道へ

 日記も2冊目になり、スキナンはあまり毎日日記を書くことに執着していませんでした。曲がりなりにも学生でしたから、必要最低限の学問や、日々のスケジュールに追われることが多かったのです。スキナンは日付の書かれていない日記を買い、気が向いた時に書いていました。日記はスキナンの中では周りの人にはいえないようなことを吐き出す葦のような物でした。王様の耳はロバの耳、スキナンの好きなのは少年漫画の○○、○○の××は△△。こんな調子の生活がずっと続きました。スキナンはこの頃すでに完全な隠れヲタクになっており、毎日の日課は本屋で新しい漫画を買ったり、少しずつ整い出した個人ウェブサイトの波間を漂ったりすることでした。ここまで読んで理解が容易にできる方は、ご自身がウェブサイト巡回をされていたか、あるいは製作者サイドの人間ではないでしょうか。あの頃は良かったなぁ、あの頃にもう1度もどりたい、などと思ってしまいますね。スキナンも、あの頃のネットサーフィンは特段輝いていたように思います。

 さて、紙の日記を読むのは当然自分だけですから、淡々と書いていくのはあまり面白いことではありません。自分がいかに作品に燃えようとも、萌えようとも、理解者はスキナン1人。他の誰かが漫才の相方のようにツッコミや相槌をうってくれることなんてありません。
 
 いい忘れていましたが、スキナンは携帯電話も持っていませんでした。すでに友人は皆個人の携帯電話を持っていて今月はパケ死パケット通信費が超過して死にそうの意)、みたいな頃でしたが、スキナンが携帯電話を手にするのは浪人して大学生になってからでした。気軽にネットにアクセスして情報を得られるのは夢のまた夢。でもヲタク度が進行していたスキナンはどうしてもインターネットの世界が気になっていて、深夜に父の寝ている部屋に忍び込んでこっそりウェブサイトを覗き、毎回履歴を消去するという綱渡りのような生活をしていたのです。 恐ろしやスキナン。

 スキナンはある日、紙面上でウェブサイトを作ろうと考えました。来訪者などいないわけで、全くもって無意味ですが、形だけでも真似たかったのです。

 まず、サイトの名前を考え、次に大事なハンドルネームを考えました。当時の個人サイトを訪れたことがある人間はピンと来ると思いますが、あの痛々しい感じの挨拶文から始まるやつです。それを個人で、ノートの中でやっていました。なんとも不気味ですが、自己満足度は高く、楽しかったのです。(※スキナンはその黒歴史を大切に今でも保管しています。)

 サイトを作っているからには作品もないといけません。スキナンはそれまでに書き溜めた二次創作の小説を書いたり、書き下ろし(というのかな?)を載せたりしてサイトのページを埋めました。当時の文章力はたかが知れていて、読み返すとゾッとしますが、今でも二次創作を息抜きにするのはこの辺りのソロ活動が原点になっているからでもあります。厳密にいえば、スキナンは中学1年生から二次創作をしていましたが、作品集として纏め出したのはこれが初めてでした。1人で物事に耽ってあれこれするのがスキナン、好きなんでしょうね。

 作品を載せたあと、その下に自分で感想をつけるのも忘れていませんでした。俗にいう編集後記なるものです。さらに、読者としても参加して、自分の拙い小説を自分で読み返していました。想像するだに気味が悪いのですが、これは後に推敲する力を身に付けたと解釈して納得しています。
 
 この究極の1人芝居はその後スキナンがウェブに移動するまで5年くらい続きました。

日記としての個人、キャラクターとしての個人

 日記はこの頃になると個人の日頃の思い出を綴る他に、サイトを(紙面で1人で勝手に)運営している人間としての立場として書くようにもなっており、自分の日記にも拘らず、ハンドルネームを名乗って書くようなことが続きました。決して二重人格とかそういうことではありません。スキナンは日記に個人サイトでのdiary(※個人サイトにはお絵描き交流場や運営者の日常を綴るページがあった)としての側面を見出したのです。

 こうなってくると、もうカオスです。あるページに文化祭での楽しい行事のことが書いてあるかと思えば次のページには今週買った少年誌の感想が綴られており、その後で自分の作品について考察めいたことが羅列されているといった具合です。日記の内容が事実ではないことで埋まるようになることも増えました。
 
 さらにおかしなことに、スキナンは自分の好きなキャラクターを日記に登場させるようにもなりました。そして日記の中でキャラクターとやりとりし、自分の好きそうな展開を繰り広げてはニヤついていたのです。(もしかしたらこれは名前変換型の小説の影響を受けていたのかもしれません。)メタ認知分野の開拓をこんな時からしていたのかという超ポジティブな見方をすることもできますが、単純に気持ちが悪いと感じます。思春期真っ只中の2次元ヲタクに日記を書かせるとこういうことになるのかと思い知った瞬間です。

いざ、ネットの海へ

 ここまで読んでくるともう大したことはないのですが、スキナンは結局大学生になるまで紙面上のウェブサイト兼日記をだらだらと続けました。大学生の時は携帯電話のメモ機能を使っての日記に移行しましたが、公開はせず、自分用のポエムに近い物でした。その後正式にブログサービスを利用してブログらしいこともしましたが、世間の人間に向かってのメッセージを発信するのに気がひけるようでもあり、あまり長続きせずに終わっています。

 紙の日記はスキナンにとって、秘密のワンダーランドのような場所でした。虚構を含めた脳内の出来事を逐一書き出している状態は半ば自動筆記のようでもあり、自分以外の人間にはまず見せられた物ではありませんが、この日記活動があったから今のスキナンがスキナンであるのは間違いないのです。
 
 今は活動する場所をネットに移しましたが、紙面に書いて何かを考えることは好きだしよくやっています。なんだか書いていると、アイデアのほうから語りかけてくるような気がするのです。あるいはキャラクターが『スキナン、どうしたの?』と問いかけてくるのです。スキナンの中には現実世界を生きる人間のスキナンと、スキナンワールドの中の運営者のスキナンと、その世界の住人になり切ったスキナンがいるのです。そしてそれは紙媒体に向き合っている時のほうが多い気がするのです。

 ネットの環境で何かをするのが当たり前になった現代ですが、心の中の自分に向き合えず、もやもやと過ごすヒトもたくさん生きていると思います。スキナンはそういう時、紙の日記を使ってみてほしいと思います。何も世界に伝えなくっていいのです。毎日が小さなハレの日でなくっていいのです。

 自分のことを最後に認めてあげられるのは自分なのです。

こんにちは。はじめまして。そしてさようなら

自分の名前はスキナン・アマエです。スキナナマエをローマ字にして、途中でわけただけです。
つまり、名前なんかなんでもいいのです。ウェブ媒体で個人の名前なんて、そんなに見せびらかすものでもありません。そんな自慢できるような経歴やなにかすごいものはスキナンにはありません。

このブログを始めようと思ったきっかけは、「この世の中にはこんな考え方のヒトもいるんだなぁ」ということをなんとなく考えがまとまる内に記事として放出したら面白いかなぁと思ったからです。なにがこんな考え方なのかはこれからの内容次第ですが、多分スキナンはその辺の人間に自分のことを話しても、あまり同感してもらえる人間ではないような気がするのです。だからこのブログを読んで合わないなぁという人間がたくさんいても全く気になりません。そういうヒトはいつでもさようならしてください。not for meというだけのことですからね。

スキナンはこれから適当に思いついたことを書いていきます。ブログという体ですが、自分への手紙のようなものかもしれないとも思います。

こんにちは。はじめまして。そしてさようなら。
この言葉を皆さんの脳みそに捧げます。